2014年6月17日 (火)

私の受けた戦後教育(1)

 「幕末百話」(岩波)や「漫談明治初年」(春陽堂)に、幕末・明治維新の激動期を生きた庶民の様々な体験談が記録されていて、大きく変革する社会情勢を多様な見方で俯瞰できる貴重な歴史資料となっています。 第二次世界大戦の開戦時から戦後復興期は、日本の社会制度、文化的価値観、教育内容や道徳規範など全てにおいて、幕末・維新にも匹敵する革命的な変革を再びもたらしました。

 私は、浅草で昭和12年に生まれ今年76歳になりますが、幕末維新の故老に倣って、戦後に体験した戦後教育を披瀝したいと思います。

 昭和20年3月10日のあの大空襲は、少し前にあった横浜空襲を父親が大空襲の前触れであろうと判断し、直前に池袋へ引っ越していたお蔭で間一髪、家族全員は命拾いしました。

 学童疎開に行けない小学一年の同級生たちは親と一緒に、先生や近隣の人々と共々犠牲になったことを、かなり経ってから知らされ、一人になりとても悲しい気持ちになりました。

 当夜は掘ったばかりの防空壕の中から、東の空いっぱい真っ赤に染まった浅草方面を、膝をわなわな震わせ見上げていました。

 翌日早速に、栃木の母親の実家に向け、東京在住の叔母たち三家族と、リヤカーで出発準備を始めたのですが、長い距離と時間、一番幼ない私の同伴の困難さを考え、乗車するさえ困難な列車でとにかく往けるところまで行こうと、各家族バラバラで向かうことになりました。その時の強行軍振りは今でも鮮明に思い出すことができます。

 やっとの思いで村に着くと、村出身の母親が頼み込んで、集会所に仮住まいすることになりました。出征しなかった無経験な村大工に借地建築を依頼し、幸い移り住むことができました。

 今から思えばバラック同然の粗末な建て方でしたので、ピサの斜塔のように傾き出し、外側から支える羽目になりました。その後にあった農地解放で図らずも、自給できる程度の農業を始めていましたので、昭和31年の高校卒業まで、この家に住み続けました。一緒に疎開した叔母たちの家族は既に東京に戻っており、東京へは最後に戻りました。

 現在は栃木市に編入されていますが、村の国民小学校分校に転入しました。当時の浅草と村の方言や文化の違いから、日常的にカルチャーショックの連続でした。今で言うところの「いじめ」を日常的に受けましたが、体格の発達と共にそれもいつしか無くなりました。

 日常の歩行や澄み切った環境で、新鮮な食糧や家畜飼育の産物を頂き、思い川の清流での水泳や鮎取りなどから、ひ弱な下町っ子から逞しい子供へといつしか成長していました。

 奉安殿と宮城に向け行う遥拝や国旗掲揚、国歌斉唱の儀式は全国統一で行われていましたが、それも終戦日を境に全く一変してしまい、信じられないほどの徹底的な破壊と、御真影を含む戦中資料の焼却が校庭で昼夜行われ、使用教科書の多くの頁に墨で塗りつぶすよう指示されるなど、複雑な気持ちを抱えつつ、言われるままに黙々と作業しました。

 間もなく、復員してきた教員たちによって、新制の学校教育が手探りで実施されたのですが、かなり長期間にわたって様々な混乱がその後もずっと続きました。

 これは特異な例なのでしょうが、軍用電池を使って泣きわめく学童たちに体罰を与えようとするエキセントリックな復員教師Aがいました。Aは、冬休みの無人教室に一人残って、洋燐マッチの作成実験をしていて中指を切断する爆発事故を起こしたのですが、お咎めを受けることなく町の中学校へ配属になりました。分校長は同級生の父親で人望ある方でしたが、責任を負って奥地の学校へ配転され、ほどなく辞して農業を始めました。社会の不合理な一面を初めて経験しました。

 この辺鄙な村にさえ、食料品買い出しにやって来る都会の人々がいて、高インフレのため物々交換していましたが、農家の横柄な態度に、子供ながらとても不愉快な気持ちを抱きました。

 村唯一の中学校は村内北部にありましたので、さらに遠距離を歩いて通いました。

当時の先生は、実に多彩な経歴の方がおられました。例えば、陸軍士官学校出身のE先生からは、陸軍式測量・地図作成法を教えて頂きましたし、朝鮮で米人シスターから教育を受けたF先生からは、地方では稀有なネイティブな英語の発音教育を受けました。

 私は、後妻に入って母が生んだ兄弟の末っ子でしたので、行く末を案じて、宇都宮工業高校の電気通信科二回生に進学することになりました。学区制がありませんので、様々な地域から多く友人を得ることができ、現在も交流を続けています。

 先生方には、異彩な経歴の方々が多数おられ、例えば、化学担当のU先生は、いつも瞑想スタイルで講義されました。最終講義に、ご自身が農地解放による没落地主出身であること、戦前に東京帝大学法学部生のときに結核を患い戦後完治してから東北大工学部に進み卒業したこと、-誉れ高い秀才の法学部鳩山秀夫教授が英国留学中に病を患い、惜しまれつつ戦後亡くなられたこと等々、思い出深い話を沢山伺いました。今でも、イオン化系列を暗証することができます。数学担当のK先生は、秀才の誉れ高い名古屋帝大航空学科出身の美男子でした。他に、東北大学卒業したばかりの若い先生方が多数おられて、勃興期にあった電子通信工学の奥義を余すところなく教えて頂きました。

 さしずめ、ニューヨークのジュリアード音楽学院が、亡命白系ロシア人の教師たちによって、後の隆盛を極めた事情に似ていると思います。あながち、社会変革のシャッフルは悪いことばかりでなくて、未来社会の活性化と成長に資するメリットが存在するのではないでしょうか。

 先輩に、あの著名な音楽家渡辺貞夫氏がおられました。後に甲子園で準優勝したときは、駅前からパレード行進の先導役をつとめて頂きました。

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2005年9月 7日 (水)

教育と社会

 社会と家庭が貧しいと、子供の手助けは当然で疑問に思うこともなく、家族全員のチームワークで家業を助ける姿がごく普通に目にする日本の庶民風景でした。戦後社会の激変と少子化から、巨大スーパーの出現に代表される商業分野の集約と寡占が進むと、廃業しサラリーマンに転身すると、子供に対する教育と両親の期待もまた大きく変化しました。ごく普通に存在した、親の後姿を見て育てる家庭内OJTは殆ど姿を消し、子供部屋でひとりゲームに興じ、携帯メールを操る子供に親が期待したのは、バブル期までは出世コースに乗ることであったのに、今はせめて非行に走らないで、できれば個性的なタレントに、可能ならばIT社長にと願うようになったのは、そもそも親自身が子供の教育をどうすればよいのか正しく判断できず、方向を見失って思考が拡散し、混迷していることに原因があるようです。

 中国の一人っ子政策は、毛沢東の失政によって生じた人口圧力に悩んだ末に採られた苦肉の国策なのですが、出生統計に表れた男女出生率のアンバランスと高齢化の進展が新たな課題として注目されています。正常な男女出生率は1.06とされおり、男児の出生が僅かに高い理由として、真偽のほどは知る由もありませんが、有史以来繰り返されてきた戦闘で死亡する男子の数を生物学的に補なおうとしているという俗説があります。最近発表された中国統計資料〔吉林大〕によると、男女出生比率は1.18になっていて、明らかに儒教的な男子優先の恣意的な意思が強く働いた結果であると推測できます。

 教育は、社会文化の向上という効果を確認するまで、一世代(30年間)相当のタイムラグを必要とするので、将来の国の文化レベルを決める重要施策であるにも係わらず、効果の見えにくい非効率な学校システムの上に乗って、ある種の社会慣行であるかのように、学校教育を中心に行なってきました。例えば「ゆとり教育」は最近になって文科省が渋々見直しに同意しましたが、文教行政の中で単純明快なこのような制度変更ですら、昭和52年〔1977〕スタートから実に28年を経過した今頃になってやっと見直される始末です。学校教育は国民の全てが参加する基幹システムであるのに、効果確認まで約30年のタイムラグを介在しなければならないために、この間に起きた社会環境の変化と当事者の交代が、当初の理念と実際の効果の検証を不十分なままに、何時までも迷走し続け、ときに回帰して、まるで波動が納まらないような不安定な状況を生み出しています。

 豊かな社会は、人々の勤労意欲、向学心、道徳観などに強い影響を与え、望ましくない方向の反作用を受けるようになりますので、衣食足りて礼節を知るようには、必ずしも社会は正しく反応し動かないことを、既に多くの事件の検証を通して周知しています。例えば、戦前教育の影響を受け家父長の大家族を体験して育った親が、豊かな社会の洗礼を受けた戦後教育の少子化の子供を、果たして"正しく"導くことができたのだろうか。この30年間の親子一世代に生起した社会変化は、過去のどの時代にも見出せないほど速いスピードの大きな振幅の複雑な変動であったし、なお進行中であるので、過去の経験則は半ば否定され、無用となって、新たな規範を求めさ迷っている状況にあります。教育論の百家争鳴です。

 出展は忘れましたが、育児の要諦は「子供に三分の飢寒を与える」ことにあるとされています。多少の無理を押し長期間に亘って、環境の落差を意識的に与えながら、子供に向上心を芽生えさせ、変革の意欲をかき立てるように導くことが、親の義務であるとする考え方です。社会環境がゆっくりと変化し擬似静的に固定と見なされる古きよき時代は既に過ぎ去り、あたかも初期条件と境界条件が絶えず変化する編微分方程式を解き続ける様に似た現代において、例えば、新薬の臨床試験のように、条件と対象を限定し短期間の効果を測定する教育効果のいわば"薬効"を検証可能な、工学的手法が採用されるべきなのです。

 30年近くを経て、「ゆとり教育は失敗」であったと認識されるようになりましたが、その検証はあまりにも無駄が多く、長時間を要してしまいました。この間に起こった子供たちの変化を見れば、取り返しの付かない貴重な「30年」を浪費したことを反省しなければならないと思います。IT時代に即した、有効な新しい手法を存分に駆使して、教育効果をもっと迅速に検証できる方法を開拓すべきではないでしょうか。

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