2005年9月21日 (水)

幼児期の別離

 春秋恒例の移動の季節がまた巡ってきました。親の転勤は、一方で幼い子供に別離の辛さを経験させます。  一緒に遊んだ友だちや、親身になって育ててくれた祖父母たちと別れる悲しみ、移転先の漠然とした不安を抱く子供に対して、親たちは想い遣る余裕すらなく、眼前の煩雑な移転作業と業務引継ぎで頭が一杯で、子供の心の変化に気付かず、見過ごしてしまうようです。もうすぐ3歳になる男児を持つ長男の家庭と、同齢の女児のいる次男の家庭が近々転居することを知り、同じ年齢の長男との体験を反省を込め想い出しています。

 初孫の長男は出産から3歳になる2ヶ月前まで、都内にある祖父母〔家内の両親〕家に隣接したアパートに家族寄り添って住んでいましたが、日本社会が高度成長期に向かって漸く離陸しようとしている昭和45年になると、残業も増え職住接近の必要に迫られて、職場のある埼玉へ移転することにしました。祖父母は当時40代半ばと50代そこそこの若さでしたが、戦中戦後の苦難の時代を東北と都内を転々とする生活のもと、実子2人の育児は理想に程遠い状況にあったことの反省が背景理由にあったと思いますが、初孫の長男をまるで我が子のように熱心に育ててくれました。歩き始めてから日課の散歩は言うに及ばず、勤務留守中の昼食はいつも祖父母と一緒でしたし、帰宅の遅い父親に代わって入浴は祖父が担当してくれていました。2歳を過ぎると、祖父の小旅行に一緒することも多くなりまして、笑顔一杯でさも楽しそうな祖父と孫のツーショットが残っています。

 引越しの当日は、祖父母の愁嘆の涙と「何故、可愛い孫を連れて行ってしまうんだ」の恨み言葉に、「電車で1時間はかからないので何度も来ますから」と慰めるのが精一杯でした。転居先の新生活は、祖父母に任せていた分を併せ両親が分担しましたが、3歳の幼児が自然に獲得した順応性に大いに助けられました。

 忘れられない親子の絆を再考させてくれる場面がありました。遅く帰宅しても日課の入浴は父親が担当しました。胡坐に仰向けに乗せ、湯水が耳に入らないよう、左手で頭を支えて両耳をしっかり塞ぎ、湯を含んだスポンジを絞るようにして優しく頭を洗いましたので、自然と親子が上下に対面する形になりました。生まれてよりずっと祖父と一緒に入浴していた楽しい日々を想起している筈なのに、互いに触れないよう示し合わせているかのように、二人の間の緊張感を何とかして緩和したい幼い精一杯の想いからなのでしょうか、眼前の父親の胸に隆起した鎖骨を指差して「パパ、これなあに?」と尋ね、「骨だよ」と答える無意味な会話を繰り返していました。

 この1年後に、3年保育で入園したばかりの幼稚園を中退させ、次男が誕生して四人家族になっていましたが、再び一家で仙台に赴任することになりました。いつも親たちの都合によって、無抵抗な犠牲者となるのですが、このときも幼児の心裡に想いを馳せる配慮や努力は確かに足りなかったと反省しています。

 社会背景として、在学中に起きた激しい第一次安保騒動で殆ど授業のない状態のまま卒業したため、60年代の数年間は、いわば日本の「文化大革命」状態の暗黒時期に相当し、勉強をまるでしないままに多くの卒業生が送り出されることになりました。その一人として再勉学の渇望を持ち続けていましたので、手段を尽くしてS研究室所属の研究生として機会を得ると、万難を排し赴任することにしました。70年代になっていましたが、さすがの安保騒動も終息寸前にあって、赴任して間もなくの6月のある朝、活動家の農学部生が絶望のすえ焼身自殺する事件が大学本部前で起きたのを記憶しています。未だ混乱の余韻が随所に残る発展途上の、しかし活気のある社会でした。

 子供たちはこの後も、折角親しくなった友だちや、優しい祖父母たとも別れて、知らない土地への転居を繰り返しましたので、親子の間に意思の疎通を巡るある種の葛藤が生まれたように思います。幼児期のことと侮ることのできない深い心理作用なのでしょうが、不信感にも似たある種の感情の発露ではなかったかと思います。幼児ゆえに当座は理解されなくても、よく説明しもっと意を尽くして伝えるべきではなかったのかと回顧しています。

 この時の長男と3歳になる男児からなる家族3人は、まもなく2年間の滞欧を終え帰任することになっていますし、次男と間もなく3歳になる女児の家族3人は近日中に隣県へ転居します。子育ての小史は、親子代々綿々と繰り返され、これからも継続されていくわけですが、幼児の心理にもっと心暖かな想いを注ぎ、心配りする親の努力を切に願ってやみません。 

   

 

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