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2005年10月10日 (月)

人間学について

 宮崎音弥氏に権威代表される心理学者が日本の心理学を牽引していた時代がありました。異常心理を研究対象にしたフランス発祥の心理学でしたが、正常者ならば隠蔽し理解し難い心理現象は、異常者ならば容易に観察できる筈であるという発想が創設のベースにあったに違いないと、門外漢として判断しているのですが、異常者の示す典型的な症状に基づいて正常者を分類区分するので、必ずしも心地よい診断として受け容れ難いものがありました。例えば、分裂症的や偏執気質など聞くもおぞましい異常症状の分類区分が適用されるので、まるで創造主の教義ような犯しがたい神聖な立場を心理学が占める錯覚を、検者と被検者の双方が自然に持つようになったと思います。犯罪心理学であるならば、ある種の異常認識がありますので受容され存在する意義は認めますが、正常な社会人を広く対象とするに及んで、その異様さから次第に敬遠され衰退していったのは、考えてみれば当然のことです。共産主義が衰退して久しいにもかかわらず、マルクス主義の亡霊が未だ健在であるように、かって学習し刷り込まれた人々が存在する限り、時折再会する機会がこれからもあるでしょうが、復活だけはして欲しくないと思います。

 人間の心理や脳機能を対象にする学際において同様の共通する危険性が存在します。つまり、結果とその原因の関係解明が現象分析に基づいているが故に存在する危険です。脳細胞の作用物質までのミクロ追求が未だ不十分であることにその責任の一旦があると理解しているのですが、例えば、セントヘレナ島埋葬のナポレオンの遺髪にある砒素は、果たして痩せ薬なのか、毒殺の証か、あるいは病気の治療薬かは、未だに解釈が分かれていますが、真実は推察の域を出ることはありません。心理学においても類似の検証が行なわれることがあり、行動結果の現象分析から確からしい推論が導き出されるときに、例えば異常心理に基礎を置いた分析であるならば、異常性が殊更に強調された診断となりますが、通常生活の人間が異常性を極として日常行動しているかは甚だ疑問です。

 栄養学にもこれと類似の分析危険が存在します。"健康"な生活を生前に送ったと見なされる人間の臓器を取り出し化学分析したとして、含まれている微量金属は果たして健康者の正常値と判断すべきか否かです。例えば、天然マグロには約1PPMの有機水銀を筋肉内に含んでいますが、これを海水溶出の無機水銀が自然に有機化した結果と見るか、ふぐ毒のように固体擁護のための天然毒摂取と判断するか、あるいは常時回遊に必要な機能物質と評価するかは、更なる深い研究を待たねばならない筈なのに、同様の分析結果から栄養学においては必要摂取の微量金属量が単純表示されています。舌の味覚障害に亜鉛摂取の不足があるとされることがあり、葱の摂取を勧告されますが、どの様に検証された結果なのでしょうか、未だ疑問に感じています。

 経済学にも同様な課題があります。いわゆる価格決定の根拠理由に代表される心理的な側面です。いずれにせよ、人間の行動、心理、現象を対象にする学際に対して、常にある種の懐疑的な姿勢を持ち続ける必要があるように思われます。常に正しいとする理論は、対象が人間である限りにおいて、未来永劫、到底存在し得ないと見るべきではないでしょうか。 

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