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2005年9月23日 (金)

失敗することの意義

 この世の中で、成功より遥かに多数の失敗が日々生起しているにも係わらず、失敗は顕在することなく密かに葬り去られ、速やかに忘却されることのみを只管願うがために、輝かしい成功事例の華やかさに幻惑され、在るに違いないと信じて成功の秘密の鍵を追い求めて止まないのだと思います。昨今になって漸く「失敗学」が提唱され広く認知されるようになりましたが、未だ多くの分野で、相変わらず失敗原因の追求に主眼が置かれた評価が幅を利かせていて、失敗することの意義を未だ充分には議論されていません。

 ここで言う失敗とは、失敗する筈がないと確信される程に、必要な準備と入念な調査が事前に行なわれた真面目な計画の結果に対する評価であって、半ばいい加減なプランと粗雑な手続きのままに試行したことの結果の評価ではありません。真剣に対峙したことによって、それと自覚されるまで失敗ではないし、たとえ当初の目標に対し成功しなかったとしても、目標以外の事象で多数の小さな成功を手中にしていることに早晩気付く筈です。なにより、当座は失敗と判定されても、日時の経過と環境変化によって、成功と再評価される事例をよく経験します。ノーベル賞受賞でご存知の白川教授による導電性プスティックの発明は、いわば失敗の贈物でありました。

 失敗によって、自信に満ちていた核心部分を見直し、他人の意見に真剣に耳を傾け、文献や書籍を再調査し、専門家に審らかに問い、同輩と議論することで、客観的な見方を進んで取り入れるようになりますから、確率を高めて成功に向かう助走路へ再び就いたことを意味します。

 洋の東西を問わず聖職者は、世の中に生起し存在する清濁、善悪、美醜を知悉する資質が理想であるとされます。若くして出家し、所要の苦行を行なってなった聖職者は、舞姫の教導僧よろしく、老いて俗世の誘惑に「転び」易いものですが、天台宗法主の今東光老師のように、放蕩三昧の末に出家穏座すると、全てを知る安堵があります。成功も全く同様でして、失敗の肥沃な土壌に咲く大輪の花にたとえることができると思います。そして、失敗の意義を再確認できたならば、勇んで再挑戦しようではありませんか。

 

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